『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜこれほど人々を魅了するのか──人は文脈に感動する
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映画『ボヘミアン・ラプソディ』の勢いがまだまだ止まらない。

第91回アカデミー賞では5部門にノミネートされ、累計興行収入は100億円を突破。観客動員数は700万人を軽く超えている。

2018年公開作品としては唯一の興行収入100億円超えであり、国内の音楽・ミュージカル映画の歴代1位である『美女と野獣』の124億円を超えるのも時間の問題かもしれない。

 

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では、『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜこれほど人々を魅了するのか?

本稿では、「音楽映画的側面」「マイノリティの問題」そして「文脈」という3つの観点から考えてみたい。

 

ライト層へアピールできる、大ヒット曲の制作秘話的側面

映画『ボヘミアン・ラプソディ』を貫くのは、シンプルでわかりやすいプロットだ。

フレディ・マーキュリーがバンドに参加し、クイーンとなり、絶頂期を迎え、破綻し、復活する。

ストーリー上のひねりはほとんどない。誰が観ても混乱しないようにわかりやすく脚本が書かれている。

また、使用されるのは誰もが知っている大ヒット曲のみで、クイーンについてそれほどよく知らなくても楽しめるように設計されている(これらの点は、公開前に批評家たちから酷評されていた理由のひとつでもあった。いわく、新しさがないありふれた作品であると)。

 
すでに各所で指摘されている通り、劇中の描写はいくつかの点で史実とは異なり、あえて触れなかったであろう点も多々ある。

あるいは、クイーンというバンドがどのような困難を乗り越えて音楽界の頂点に立ち、どのような背景のもとで名曲たちがうまれたのか、そういったことは触り程度しか触れられず、大部分はバッサリ省略されている。

バンドの歴史を正確に知りたければこの映画はまったく物足りない作品であるだろう。

 
しかし、史実との整合性といったことは瑣末な問題にすぎない。それは本作の中心ではないからだ。

誤解を恐れずに言えば、この作品において、クイーンというバンドは実はそれほど重要ではない。

というか、この映画に登場するクイーンというバンドは、実在するクイーンというバンドを参考につくりあげたフィクションだと考えた方がいい。

 
そもそも日本国内におけるヒットという点についてのみ考えるなら、40年前のイギリスのバンドについて詳しく知っている人はそれほど多くないだろう。

マニアックに入り込まず間口を広く取った方が、圧倒的大多数のライト層には受け入れられやすい。

 
それでいて鑑賞後にはやっぱりクイーンの音楽を聴きたくなるわけだから、映画『ボヘミアン・ラプソディ』はクイーンの本質をしっかり抜き出しているわけで、音楽映画としても評価に値する。

 

マイノリティという今日的問題

次に、より今日的な問題として、人種やセクシャリティといったマイノリティの問題を扱っているという点があげられる。

フレディ・マーキュリーの本名は、ファルーク・バルサラという。

彼は幼少期をインドで過ごし、一家はゾロアスター教徒であった。つまりマイノリティであったわけだ。

冒頭、積荷係として働く空港での場面や初めてのライブで、フレディは「パキ」(パキスタン人に対する蔑称)と罵られる。これらのシーンは、彼がマイノリティとして日常的に差別にさらされていたことを示す。

 
また、よく知られている通り、フレディは同性愛者でもあった。

映画は、冒頭より細かい伏線を多数配置しながら同性愛への目覚めを絶妙に抑えたトーンで描き、役者たちは複雑な葛藤を見事な表情で表現する。

フレディがメアリーに「自分はバイセクシャルかもしれない」と告白した際の、メアリーの一連のセリフは、2018年〜2019年の現在においても注目されるべきものだし、その後のふたりの関係性に十分な説得力を持たせる。

こうした今日的な問題がしっかり物語に組み込まれていることで、映画は懐古趣味に陥らず、現在のわたしたちの現実世界と密接に結びついているのだと実感させる。

確かに、マイノリティの問題は、それほど踏み込んで描き込まれたわけではなかったかもしれない。

しかしこれも、大多数のライト層をターゲットにしていると考えれば納得がいくし、微に入り細を穿つようでは、本作の中心テーマから外れてしまっただろう。

映画『ボヘミアン・ラプソディ』の芯は、以下に述べる3つ目の点だ。

 

人は文脈に感動する――『ボヘミアン・ラプソディ』の文脈

本作のクライマックスに訪れるライブ・エイドのシーンは、ピアノの上に置いてある飲み物から人物の動きまで、完璧に再現されている。

実際の映像がYouTube上にアップされているのでぜひ見比べてみてほしい。

確かにものすごい再現力で、この作り込みには驚く。

しかし、それだけならばモノマネ映画で終わったかもしれない。モノマネ映画だったら、これほど多くの人が感動する作品にはならなかっただろう。

2018年を生きる人々が1985年のライブを観てなぜ感動するのか?

現実の映像はYouTubeで観ることができるというのに、つまり盛大にネタバレしているというのに、なぜ映画になると感動するのか? この点が、『ボヘミアン・ラプソディ』を唯一無二の映画にしている点である。

映画『ボヘミアン・ラプソディ』でもっとも重要なシーンは、ライブ・エイドのシーンではなく、その直前に挟まれる家族との再会シーンだ。

この時フレディは「本当の自分」を取り戻し、疎遠だった家族と和解する(もちろんその前にはジム・ハットンとの再会があり、バンドメンバーやマネージャー、元パートナーであるメアリーとの再会がある。彼らもフレディの「家族」というわけだ)。

冒頭から描かれていた父と息子の価値観の違いが生み出す違和感は、いまだ解消されることがない。しかしもっと大きな愛によって両者は歩み寄る。

フレディはジムを家族に「友達」だと紹介し、母はすべてを了解する。

父は戸惑いながらもフレディとハグをし、フレディは父の教え「善き思い、善き言葉、善き行い」を忘れていないことを示す。

そしてフレディは別れ際、「ステージからキスを送る」と母に伝える。

 
ライブ中、フレディは2回、カメラに向けて投げキスを送る。

キスの後にスクリーンが捉えるのは、1度目は自宅でテレビを見ている父、母、妹の3人であり、2度目は同じく自宅でテレビを見ている母の感動的な表情だ。

この時、長年途絶えていたフレディと彼らとのあいだで真の交流が果たされ、ふたたび家族となったことを映画は強調する。

このように、ライブ・エイドのシーンが感動的なのは、それが現実を完璧に再現しているからではなく、そのシーンがどのような文脈によって成立しているかを明確に示しているからなのだ。

 
人は、文脈に感動する。つまり文脈とは、物語のことだ。

だからこそ、わざわざ字幕で示される楽曲の歌詞が、ただの歌詞ではなく実感をともなった言葉として観客の胸に刺さる。

ひとつ具体例をあげるなら、たとえば『ボヘミアン・ラプソディ』の「ママ、人を殺してしまった」という歌い出しは、フレディの心境を見事に表現している一節だと言えるだろう。

厳格なゾロアスター教徒であり迫害されたパキスタン人であるバルサラ家においては、ロックミュージシャンやゲイであることは、「人を殺す」ことと同じくらいの罪であったのかもしれない。そのことをフレディは理解していた。

事実、当時のイギリスでは、ようやく同性愛が合法化されたばかりだった。

記者会見のシーンを思い出してほしい。記者たちは、まるで罪人に石を投げるかのようにフレディのセクシャリティについて糾弾している。

しかしフレディは、ただ本当の自分でいたかっただけなのだ。

「悲しませるつもりはなかったんだ」それなのに──という深い苦しみが、映像と音楽を通して痛いほど伝わる。

 
この映画を最初から観た者にとっては、ラストシーンで歌われる楽曲のすべてが、フレディからの別れの言葉に聞こえるだろうし、苦しみと喜びの解放の歌に聞こえるだろう。

あるいは、病との闘いへ向けた力強い宣言のようにも聞こえるかもしれない。そしてその闘いに彼が敗れることを誰もが知っているからこそ、これらの言葉はどうしようもない悲しい響きを持つ。だから観客は感動する。

 

映画『ボヘミアン・ラプソディ』の普遍性

したがって、『ボヘミアン・ラプソディ』は、クイーンの単なる伝記映画などではないし、現実を正確に再現した音楽映画でもない。

これは、時間とともに形を変えゆく男と女の結びつきについての映画であり、本当の自分とは何かについての語りであり、家族を得て、失い、再び家族になるまでを描いた愛の物語なのだ。

その普遍性が、多くの人々を魅了したのだった。

 

text by 山田宗太朗